大正時代に入ってまもなく湖東中部地方の町や村は、それまでの近江鉄道の路線によるよりも、 もっと短距離で全国的幹線鉄道網に直結することになった。東海道本線の近江八幡と八日市とを結んで建設 され開通をみた湖南鉄道がそれである。明治44年(1911)のことである。
八幡と八日市をいう湖東地方の二大商業地を結ぶ交通ルートとして八風街道(現国道421号線)があり、物資 の輸送に大きな役割を果たしてきた。道路も平坦で短距離で便利であったため、かえって鉄道の実現が遅れ、 その動きが始まったのは実に明治も終わりの44年のことであった。
同年5月25日7名の地元有力者が発起人として、蒲生郡金田村大字鷹飼の東海道本線近江八幡停車場付近から、 八日市町の近江鉄道八日市停車場に至る8.7kmの間に軽便鉄道を建設し、資本金15万円をもって湖南鉄道の 設立免許の出願がなされた。同年9月首尾よく免許が与えられたが、そこに至るまでの道のりは必ずしも平坦では なかった。その間において、当地方の先発鉄道会社である近江鉄道が自社路線延長計画をもって同一ルートに参入 しようとしてきたからである。
湖南鉄道の蒸気機関車
2.近江鉄道の参入
湖南鉄道の出願に遅れること約一ヶ月あまり、同年7月3日、湖南鉄道の計画とほとんど同一ルートの軽便鉄道 の敷設免許の出願がなされた。出願者の名義として近江鉄道の名は表に見えないが、その発起メンバーの顔ぶれは いずれも同社の現職役員であった。その後、わずか2日おいた7月5日付けをもって当の近江鉄道が早くも覆面を 取って出願主体として乗り出してきて、急遽出願に及んだ事情を釈明している。3.近江鉄道の撤退
それまで10年あまり、小規模ながら湖東地方を一条の鉄路を軸としてその支配力を維持するのに汲々としていた 近江鉄道としては、八日市−近江八幡という重要ルートの鉄道計画について湖南鉄道に後れを取った形となり、 それなりのショックをうけたものか、事態への対処ぶりはけっして適切ではなかった。「追願書」を管轄違いの 逓信大臣に提出し、のちあわてて鉄道院所轄の内閣総理大臣あてに再提出したという手続きミスにもその辺の事情が うかがえるのであった。
この間湖南鉄道においても近江鉄道の揺さぶりに対し緊張が高まっていた。同年7月31日鉄道院総裁あてに 「陳情書」を提出し、その辺りの事情を訴えている。近江鉄道側も8月7日付けで同社の支線建設の形で 「軽便鉄道敷設願」を内閣総理大臣あてに提出した。それに伴い7月3日付け「軽便鉄道敷設願」のメンバー によってその取り下げが行なわれたのも予定された筋書きであった。
こうして近江八幡−八日市間鉄道ルートをめぐる湖南鉄道と近江鉄道のデッドヒートは、やはり先願という点が 決め手となったのであろうか、同年9月30日付けをもって湖南鉄道側に免許が与えられ、同時に近江鉄道の出願は 却下されたのであった。4.全線開業へ
以上のストーリーは明治44年のことであるが、昭和19年に後の八日市鉄道が近江鉄道に吸収合併されること など夢にも思わなかったであろう。
湖南鉄道株式会社は設立され、大正元年(1912)より工事に取りかかったが、鉄道建設は資金難のためなかなか進捗 せず、とくに経営陣が将来を見通して線路幅を当初の760mmから、国鉄、近江鉄道に共通する1067mm に変更したため予算が大幅に膨らみ、会社の財政は行き詰まってしまった。そこで社業体制の一新を図って、五個荘村 出身の有力実業家藤井善助を社長に迎え、財政再建に努めた結果、ようやく大正2年12月29日近江八幡−八日市 間全線の開業の日をむかえたのであった。
翌大正3年には欧州大戦が勃発し、時代の転換の大きなうねりはこの地方にも及んできた。当時、湖南鉄道のような 短小な私鉄事業に対し大きな脅威となったのは自動車による道路輸送の動向であった。 この気運をいち早く先取り して、湖南鉄道も、同年10月から近江八幡停車場から八幡町の市街地まで8人乗りフォード2台を投入して自動車 運輸営業を付帯事業として開始した。
上の名所案内図とよく似て
湖 南 鐵 道 、 省 線 發 車 時 刻 表 (大正 中期)
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資料:出典「八日市市の歴史」、近江鉄道記念乗車券