湖南鐵道から八日市鐵道へ
    明治45年に設立され、大正2年に開業した湖南鉄道は近江八幡−新八日市間(8.4km)で ローカル軽便鉄道として、それなりにしっかり地域に根を張った手堅い経営を進めていた。大正14年5月24日 には八日市町延命寺公園にて開業10周年の祝賀会が盛大に開催された。その後、湖国観光輸送体制の変動に 巻き込まれ、八日市鉄道となり、そして戦時統合政策により近江鉄道に吸収合併されていった。

1.湖上交通と湖南鉄道

    琵琶湖の湖上交通は明治10年代の末ころから太湖汽船と湖南汽船の二大有力企業の掌握するところであって、 太湖汽船は湖上全域に航路を有し、湖南汽船はその名のとおり湖南地域において活動しており、湖国水上交通の 古い歴史に支えられてこの両社はそれぞれ安定した優良経営を行っていた。
ところが大正12年(1923)12月江若鉄道が開業し、太湖汽船の沿岸航路の独占が切り崩されることとなり、 太湖汽船は経営不振に陥ったのである。

    この間、かねてより湖国観光市場の制圧を目指す京阪電鉄は、大正14年2月、京津電軌(現京阪電鉄京津線)を 合併して大阪、京都から琵琶湖湖岸大津までの鉄道輸送ルートを確保し、さらに湖南汽船と提携する形で事実上自社の 傘下に収め、かくて京阪電鉄による水陸一貫の湖国観光客誘致体制が整った。これにより、太湖汽船の業績はいっそう 悪化したのであった。

    京阪電鉄という強大な勢力の浸透に対し湖南一円の中小水陸交通企業は一様に強い危機感を抱き、協力しあって対抗 勢力を作ることとなり、大津電車軌道(現京阪電鉄石山坂本線)と太湖汽船および湖南鉄道の三社は昭和2年(1927) 1月21日合併して、新たに琵琶湖鉄道汽船を設立した。この時なぜ湖南鉄道がこの合併に加わったのかは資料が無く 定かでないが、湖南鉄道は近江八幡より南進し大津まで自社線路を延伸させる計画があったものと推察される。
こうして湖国観光体制は、京阪電鉄系と琵琶湖鉄道汽船系の二つの勢力の対立、競争に集約されたのである。

現在の八日市市
小脇町四つ辻付近を
走る八日市鉄道の
蒸気機関車。
貨客混成列車だろうか?

昭和10年頃


2.京阪電鉄の傘下へ

    しかし、この対峙する二つの陣営の資本的力量はけっして互角ではなく、京阪電鉄側が大私鉄資本だけに押し気味で 、当時国内経済不況のもと、局地的な企業競争の社会的マイナスを回避しようという大義名分で、湖国観光交通体系 再編成にあたって主導権をとり、結果的には琵琶湖鉄道汽船を自社に都合よく「料理」してしまった。

    すなわち、湖上交通はやはりこの際、過去のいきさつを水に流して元太湖汽船航路を湖南汽船に吸収して新たに 太湖汽船として再発足させ、航路関係の一元化により航運経営を合理化し、元大津電車軌道線路を浜大津において 接続している自社線路に編入して、石山寺、三井寺、比叡山など湖岸有名社寺観光地への鉄道輸送体制を拡充したが、 かなり距離がへだたって自社路線や支配下の航路とも直結していない元湖南鉄道線路は、統合のメリットが無いと して切り捨てられることになった。

    京阪電鉄と琵琶湖鉄道汽船との両社間では、昭和3年にはいって早くも合併交渉が進められ、「合併仮契約書」の 中に元湖南鉄道の処分方法が規定されていた。形式は「合併」であっても実質的には前者による後者の「解体」 にほかならないものであった。その後、いくつかの問題があったようだったが、昭和4年4月11日に合併の運び となった。
3.八日市鉄道として再出発

    この合併により「第三者に譲渡」という形で分離された元湖南鉄道事業を引き継ぐ事業主体として、昭和3年11月 より八日市鉄道株式会社の設立準備が進められた。翌昭和4年1月30日創立総会が開催され、会社は無事設立を 迎えたのであった。
    同社が引き継いだ鉄道敷設免許権は、かつて湖南鉄道時代に交付された新八日市−沖野が原−神崎郡山上村間の 7.02マイルであり、このうち新八日市−沖野が原(飛行場)間1.57マイルが昭和5年10月に開通したが、 残りの区間は未完成のまま昭和10年に免許失効となった。

    新八日市からの延長路線は、八日市中野、川合寺の各駅を経て沖野が原に至り、終点の駅名は「飛行場」駅(のち御園) という、当時としてはハイカラなものであった。 そこから列車到着ごとに自動車(永源寺バス)が奥地へと連絡し、 愛知川上流の新緑や永源寺の紅葉など、四季多くの観光客を運んだ。 やがて太平洋戦争が始まり、八日市鉄道は、 沖野が原の陸軍飛行場への資材、兵員輸送にも大きな役割を果たすようになった。
4.やがて近江鉄道と合併へ

    戦争が始まり、戦時下公共の交通機関として、鉄道の役割が相対的に大きくなり、湖東中部地方においては近江鉄道と 八日市鉄道の二社線が連帯して、戦時下の地元公共輸送にあたってきたのであった。
しかし、戦局がしだいに緊迫の度を高めるにつれて、輸送力総動員の要請から戦時交通事業統合が国策として強く 進められることになり、近江鉄道は滋賀県の各交通事業整理、統合の主体会社として、鉄道、バス、ハイヤーなど 諸会社の統合という大きな任務を課されるに至った。そして、その第一歩たる八日市鉄道の合併については昭和17年 12月に決定されたのであった。

    戦時下の電力国家管理方針により、近江鉄道を系列下においていた宇治川電気は関西配電に統合され、近江鉄道は 一時、宇治電興業の管理下となったが、昭和18年5月、堤康次郎の箱根土地の傘下企業となった。そして、昭和 18年7月近江鉄道と八日市鉄道との間で合併契約が結ばれ、翌19年3月1日より、近江鉄道八日市線として 新たにスタートすることになった。
八日市鉄道の観光用
パンフレット。
観光客誘致にも力が入っていたようだ。
終点は御園駅となっている。
昭和10年頃のものか


資料:出典「八日市市の歴史」、近江鉄道記念乗車券


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