Updated July/13/1997



八 日 市 駅 の 思 い で


文 : 荻須 憲一さん


     八日市駅は明治32年(1899年)創設とあるが、そんなに早くから 出来ていたのであろうか。 話によると、伊勢の女学校のお古を買って 移築したそうな、二階天井は低いし、傷だらけや、戦後、柱や内部が 毎年のように修築され現在のようになったのが、20年程前の事です。

     戦前の駅は静かで昭和の初めまで、ポッポ汽車が貨客混合のSLで走って いました。ピョオードン、ピョオードン、ゴト、ゴト、この頃の客車は 院線のお古で官給車と言われ、一部改造され、電車の補助車両として 牽引用に使われる。 5−6両は昔の連結器(ツヅミと鎖)、前後展望 デッキも懐かしく、松尾の駅裏に係留され、蓮池と共に子供達の格好の 遊び場でした。

     八幡線は八日市駅に無く、一本の線路と小道の上に、萬才館に落下しそうな 大岩が山から突出して、下を通ると駅裏の遊び場に行く。 山、松尾、駅、 広場、桜、赤松、ススキ、タンポポ、魚つり、静かで子供の頃が昨日の ように浮かぶ。

     タクシーは2台あったが故障もよくする。 医者は大てい人力車を持っていた 頃の話です。 あの頃から駅舎には「仁丹」の看板は掛けてあった。 駅前には、合同運送店や、うどん、菓子、茶、瀬戸物や駅長社宅、サロン と言うカフェーも手回し蓄音機で女給も2−3人置いて、兵隊相手の商売 していたが戦中にやめた。

     昭和12年6月1日、修学旅行は彦根から八日市までの、近江鉄道沿線の 小学6年生を対象にして、当時、省線と近江鉄道の計画らしい。 省線の客車4−5両を電車で挟み、先頭車は小型国旗を屋根に付け、学校、 父兄会あげての見送りを受けての修学旅行でした。

     費用は全額大阪の清水忠五郎の寄付で、お礼に各自、桟払と雑巾2枚を送る。 小遣いは1円以下、20銭よけいに持って行った。 駅前整列点呼異状無し、 リュック水筒掛け、胸踊る。親仕事休んで見送りや、駅黒山の人でごったがえし、 ハンカチ持ったか、銭落さんように忘れ物無いか、先生たのみます、悪いこと したらビシビシ怒って下さい。元気でな....。

     ポァンチィー、電車到着、ヘッドライト点け最徐行で駅に入る。さがって下さい、 さがって下さいと駅員も必死で言う。 乗車いっせいに八日市小専用一両目に乗り込む。 大てい初めての経験です。 親達皆心配だ。おうちのご長男ですか、 おうちは長女です、親から離れて泊まるの始めてです。 親涙ぐんでる。
     木造車ではあるが、真黒の車体の窓下に鉄板製紅の帯一文字に吊るし、白で三本、 車体番号は四桁、さすが国有鉄道車両だとびっくりする。 座席のもたれは垂直板貼り、 座る所だけクッション入り、当時の省線三等客車でした。 それでも、 ロマンスシートの席は皆喜んで、窓ぎわ取り合いでした。 かたみ番に座るように 言われました。 用意のよい事、テープを渡しているお父さんも有りました。

     ピリピリポァン、駅舎はバンザイの声で震えるほどです。お父さん、お母さん 行ってきます。ざわめきの中を一路伊勢へと進む。 貴生川まではノンストップ。 チーッーポァンー、こんな大編成列車見た事ない。 近江沿線の百姓の人、鍬や カマ振り上げ見送った。


** 編注 **

     八日市駅が最初に建てられたのは 明治31年7月24日と記録されています。 当時は、現在地よりやや北側に駅が建設されました。 近江鉄道の全線電化(彦根−貴生川)は昭和3年4月でした。
「八幡線」とは恐らく湖南鉄道(のちの八日市鉄道、現近江鉄道八日市線) のことをさすものと思われます。
     私の父の修学旅行の話と非常に似た部分があり、昭和10年前後の当地の修学旅行 のスタイルは、省線(現JR)乗入れ列車による伊勢神宮参拝がポピュラーのようで、 地域の一大イベントであったと思われます。湖南鉄道沿線ではSLが牽引し、近江八幡より 省線(国鉄)へ乗入れていた。 戦前においては、上の写真のように 電動貨車がかなりの数の大型客車を牽引し、省線からの乗入れによる多賀大社 参拝臨時列車などがしばしば運行されていたという記録があります。
往時の近江商人の活躍ぶりや、駅頭における人々の描写、列車の擬音など大変 すばらしいものがあり、「八日市駅舎の思い出」文集より転載させていただきました。

Title Picture by Touru Matsumiya
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