文 : 荻須 憲一さん
八日市駅は明治32年(1899年)創設とあるが、そんなに早くから
出来ていたのであろうか。 話によると、伊勢の女学校のお古を買って
移築したそうな、二階天井は低いし、傷だらけや、戦後、柱や内部が
毎年のように修築され現在のようになったのが、20年程前の事です。
戦前の駅は静かで昭和の初めまで、ポッポ汽車が貨客混合のSLで走って
いました。ピョオードン、ピョオードン、ゴト、ゴト、この頃の客車は
院線のお古で官給車と言われ、一部改造され、電車の補助車両として
牽引用に使われる。 5−6両は昔の連結器(ツヅミと鎖)、前後展望
デッキも懐かしく、松尾の駅裏に係留され、蓮池と共に子供達の格好の
遊び場でした。
八幡線は八日市駅に無く、一本の線路と小道の上に、萬才館に落下しそうな
大岩が山から突出して、下を通ると駅裏の遊び場に行く。 山、松尾、駅、
広場、桜、赤松、ススキ、タンポポ、魚つり、静かで子供の頃が昨日の
ように浮かぶ。
タクシーは2台あったが故障もよくする。 医者は大てい人力車を持っていた
頃の話です。 あの頃から駅舎には「仁丹」の看板は掛けてあった。
駅前には、合同運送店や、うどん、菓子、茶、瀬戸物や駅長社宅、サロン
と言うカフェーも手回し蓄音機で女給も2−3人置いて、兵隊相手の商売
していたが戦中にやめた。
昭和12年6月1日、修学旅行は彦根から八日市までの、近江鉄道沿線の
小学6年生を対象にして、当時、省線と近江鉄道の計画らしい。
省線の客車4−5両を電車で挟み、先頭車は小型国旗を屋根に付け、学校、
父兄会あげての見送りを受けての修学旅行でした。
費用は全額大阪の清水忠五郎の寄付で、お礼に各自、桟払と雑巾2枚を送る。
小遣いは1円以下、20銭よけいに持って行った。 駅前整列点呼異状無し、
リュック水筒掛け、胸踊る。親仕事休んで見送りや、駅黒山の人でごったがえし、
ハンカチ持ったか、銭落さんように忘れ物無いか、先生たのみます、悪いこと
したらビシビシ怒って下さい。元気でな....。
ポァンチィー、電車到着、ヘッドライト点け最徐行で駅に入る。さがって下さい、
さがって下さいと駅員も必死で言う。 乗車いっせいに八日市小専用一両目に乗り込む。
大てい初めての経験です。 親達皆心配だ。おうちのご長男ですか、
おうちは長女です、親から離れて泊まるの始めてです。 親涙ぐんでる。
木造車ではあるが、真黒の車体の窓下に鉄板製紅の帯一文字に吊るし、白で三本、
車体番号は四桁、さすが国有鉄道車両だとびっくりする。 座席のもたれは垂直板貼り、
座る所だけクッション入り、当時の省線三等客車でした。 それでも、
ロマンスシートの席は皆喜んで、窓ぎわ取り合いでした。 かたみ番に座るように
言われました。 用意のよい事、テープを渡しているお父さんも有りました。
ピリピリポァン、駅舎はバンザイの声で震えるほどです。お父さん、お母さん
行ってきます。ざわめきの中を一路伊勢へと進む。 貴生川まではノンストップ。
チーッーポァンー、こんな大編成列車見た事ない。 近江沿線の百姓の人、鍬や
カマ振り上げ見送った。
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